淀旧城

淀城は中世の淀城、秀吉が淀君のために作った淀城、江戸時代徳川幕府の作った3つの城が存在した。

中世の淀城の創築時期は明らかでないものの、永正元年(1504)、摂津守護代薬師寺元一(やくしじもとかず)が管領 細川政之に反抗して「淀之城」に立てこもったが攻め落とされたと、文献にはじめて出てくる。

秀吉の淀城は天正10年(1582)、山崎の合戦で明智光秀勢は勝龍寺城や淀城に陣を張って羽柴秀吉と対峙したが敗退した。

淀城は小野木重次があずかり、同年17年、秀吉は側室茶々の出産のためにこれを修築させた。

茶々は浅井長政の長女で「淀君」とよばれたのは有名で鶴松を産んだ。

しかし鶴松がわずか三歳で病死すると、文禄三年(1594)淀城の天守や櫓(やぐら)などを取り壊した。

淀旧城の遺跡はまったく跡形もないが、納所付近の地形を注意してみると、南側が低く北側の妙教寺の付近が一段高くなっており、往時のおもかげをしのばせる。

なお妙教寺は寛永三年(1626)松平定綱から寺地の寄進をうけ、日孝上人が開山した法華宗真門流の寺院である。

現在の本堂は改造の手が加わっているが、鳥羽・伏見の戦いの砲弾で柱が貫通された跡や砲弾が残っている。

参考文献:小学館「探訪ブックス〔城5〕近畿の城」

・最寄り駅 京阪本線「淀」より徒歩7分(700m)
・地図 http://goo.gl/Alrfyn
*情報は記事を書いた時のものです。
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