淀城

京阪淀駅近く現在の與杼(よど)神社のあたりが本丸です。


【淀城 沿革】

元和9年(1623)幕府は松平(久松)定綱に淀の築城を命じた。

これは同年三代将軍家光の就任式を最後に伏見城が廃城になったのにともなって、京都の警衛のために淀への築城と立藩が考えられたことによるという。

定綱は寛永二年(1625)までに、伏見城の遺材などを用いて宇治川・木津川の合流する(現在は河川改修され八幡で三川が合流する)川中島に淀城を完成させた。

築城地は、淀にあって早くから河川支配に実力を発揮した河村与三右衛門の屋敷跡とも伝えられ、淀君の居城であった納所の淀古城とは、宇治川をはさむ(当時)位置にあり、場所を異にしていた。

現在は天守台を含む、本丸の一部しか残っていない。

天守台には慶長期(1596~1615)に創建の二条城の天守を移築したと伝えられる。

時代はくだって慶応4年(1868)正月、鳥羽伏見の戦いで、淀城は旧幕府の守備隊としてこれにのぞんだが、時の城主稲葉正邦が老中についていたにもかかわらず、藩兵は城内にいて戦況を見守っていた。結果的には官軍側(薩長兵)が優勢とみると、淀城は敗走する旧幕府に対して門を閉ざして寝返った。

この戦闘で淀城下の民家は焼け野原と化した。

その後、淀城は廃藩となって城内の建物を破却し、周辺の石垣や掘りはとり除かれ埋め立てられた、現在、天守台と本丸・内堀の一部がわずかに残るにすぎない。

参考文献:雄山閣出版「藩史大事典」/小学館「探訪ブックス〔城5〕近畿の城」

・最寄り駅 京阪本線「淀」より徒歩3分(300m)
・地図 http://goo.gl/yqMYMz
*情報は記事を書いた時のものです。
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