聚楽第を秀次に譲った豊臣秀吉は文禄元年(1592)八月から「隠居所」としての伏見(指月しげつ)城を築き始め(『多聞院日記』、『駒井日記』)、翌文禄二年八月大坂城に秀頼が誕生すると、閏九月には大坂城を明渡して伏見城に移る(『時慶卿記』、『駒井日記』。
そして、文禄三年正月から伏見城の惣構堀以下の大改造工事が始まり、大々的に拡張する。
文禄四年七月養嗣子関白秀次を高野山に追い、ついで自殺させた、それと同時にその居城であった聚楽第を破却し、その建物を伏見城に移築している。
明使との接見を目前に控えた慶長元年(1596)閏七月十三日、突如として大規模な地震が畿内を襲い、新築なった伏見城は倒壊してしまった。
秀吉はすぐさま城の場所を変え、木幡(こわた)山に伏見城の再普請を命じた。(『義演准后日記』)
十月頃には外観が出来上がり、翌慶長二年(1597)五月城は一応完成したとみえるが、城全体としての普請は続行された。
翌年八月秀吉は子息秀頼の将来を家康ら五大老に託して、伏見城内で没した。
秀吉の没後、伏見城には家康が入った。
その後、関ヶ原の合戦の前哨戦で城が炎上し落城したため、家康はしばらくの間、仮住まいをした。
『当代記』によれば、復旧工事は慶長七年(1602)から開始され、同十年には本丸などが完成した。
この普請はそれほど大がかりなものではなかったらしい。
そして家康が駿府へ隠居すると、城中にあった宝物・什器なども移送された。
その後、幕府は大坂城攻撃の拠点としての伏見城の存在目的は終了したとして、城の放棄を決定した。
『徳川実記』に記されるように元和九年(1623)、三代将軍家光の将軍宣下の式を最後として廃城となり、城の殿舎の大部分は、京都の社寺ならびに諸大名に下付されたという。
なお、石垣の石は淀城や大坂城の石垣修築に使用された。
参考文献: 日本史研究会編『豊臣秀吉と京都』/小学館『探訪ブックス〔城5〕近畿の城』より
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