モモヤマチョウナガイキュウタロウ/現在の桓武天皇陵のある場所
永井右近太夫直勝と堀久太郎の屋敷跡
【永井右近太夫直勝】
徳川家康の嫡男信康に付属され、その死後家康に近侍する。
家康が関東へ入国した時相模、上総国の家5000石領し、文禄4年(1595)豊臣秀吉より豊臣の姓を授けられた。
関ヶ原の戦後さらに2000石が加増された。
元和3年(1617)3万石、のち下総国古河(コガ)で7万2000石を領した。
【堀久太郎秀政、堀久太郎秀治 ( 堀秀政の嫡子 )】
堀氏は斉藤道三に仕えていたが、斉藤氏滅亡前後に秀政が織田信長に取り立てられた。
本能寺 の変の際は、信長援軍の先発隊として備中に出陣していたが、豊臣秀吉に属して山崎の戦いに参加した。
以降秀吉の配下に入り、賤ヶ岳の戦いによって近江佐和山城9万石を与えられた。
ついで 小牧の陣に活躍し、天正13年(1585)侍従となり、羽柴の姓を授けられ、同年8月越前北ノ庄城18万に移封した。
小田原の陣に出陣中にわずか38歳で病死。
秀治も秀吉のもとで数々の手柄をあげ、侍従に任ぜられ、慶長3年(1598)越後春日山城30万石へ栄転した。
関ヶ原の戦いでは東軍に属して安堵されたが、秀治も31歳で病死した。
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