桃山毛利長門東町

モモヤマモウリナガトヒガシマチ/現在の桃山高校のある場所

毛利輝元、毛利長門守秀就(毛利輝元の長男)の屋敷跡

(以下「桃山毛利長門西町」と同じ)

11代将軍義輝の名の一字を与えられ輝元と名乗る。

永禄6年(1563)父の死によって11歳で家督を継ぐ(実権者は祖父毛利元就)。

以降元就と共にしばしば出雲の尼子氏と戦い、山陰・山陽10カ国を領有。

元亀2年(1571)元就は没したが、叔父吉川元春・小早川隆景らがよく補佐して広大な版図を維持。

本能寺の変後豊臣秀吉に従い、天正15年(1587)九州遠征に従軍、同18年小田原攻略に際しては京都を守る。

同19年広島城に入り、秀吉から9カ国112万石の朱印状を受ける。

文禄4年(1595)権中納言に任ぜられ慶長3年(1598)五大老の一人に列せられる。

関ヶ原の戦いには西軍の総大将となり、豊臣秀頼を擁して大坂城に入る。

関ヶ原の戦いには参加しなかったが、戦後周防・長門2国37万石に減知され、剃髪して子の秀就に家督を譲り、これを後見した。

毛利秀就は豊臣秀頼より一字を与えられ秀就と名乗る。

慶長13年(1608)松平姓を名乗り、長門守を称す。

元和元年(1615)大坂夏の陣に従軍する。

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