モモヤマツツイイガニシマチ/現在の近鉄丹波橋駅の東
筒井伊賀守定次の屋敷跡
(以下「桃山筒井伊賀東町」と同じ)
筒井定次の養父筒井順慶は永禄8年(1565)より連年のように松永久秀と戦い、天正4年(1576)久秀が信貴山において織田信長に背くと大和一国を与えられ、同8年郡山城主、本能寺の変では、光秀与力にも拘らず、豊臣秀吉に応ず。
同12年順慶が病死すると養嗣子となっていた定次が遺領をつぎ、秀吉の殊遇(シュグウ)を受け伊賀上野に移り20万石を領した。
伊賀守に任ぜられ羽柴の姓を与えられた。関ヶ原の戦いでは東軍についたが、慶長13年(1608)改易配流され、元和元年(1615)子の順定とともに死を命ぜられ家は断絶した。
定次は文禄元年(1592)受洗してキリスト教徒になっており、キリシタン大名としての処断であったともいわれている。
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