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上杉 景勝の屋敷跡
越後の勇将上杉謙信は、その生涯を独身で過ごしたため、かれの没後、継嗣(けいし)をめぐる内訌(ないこう)が生じた。
かって北条氏康と盟約を行ったとき、その子を養子にした景虎と、長尾一族のうち、姉が嫁いだ長尾政景の子、つまり甥を引き取って、養子とした景勝が対立し、互いに譲るところがなかった。
景勝は通称喜平次。
妻は武田信玄の娘であった。
かれらの対立を世に「御館(おたち)の乱」と呼ぶ。
御館の乱を制した景勝は謙信の遺領を継いで越後・佐渡・越中・能登を支配。
1583年豊臣秀吉と好(よしみ)を通じ、以後秀吉に仕えて重用される。
'86 従四位下左近衛権少将兼弾正大弼、'88 正四位下参議となり、秀吉から豊臣氏および羽柴の称号を許される。
'90 小田原攻撃、'92 (文禄 1 )朝鮮の役に従軍、'94従三位御権中納言となる。
'97(慶長 2)五大老に列し、翌 '98 会津 120万石を与えられる。
豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒をはかり1600年石田三成に呼応して挙兵したが敗れ、そのため翌年会津領を没収されて、出羽米沢30万石に転封。
'14~'15 大坂の陣では徳川方に属した。
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