横大路三栖木下屋敷町

ヨコオオジミスキノシタヤシキチョウ/現在の肥後橋(三栖神社)の北

木下肥後守家定、木下少将勝俊(家定の長男)、木下宮内少輔(クナイ ショウユウ)利房(家定の次男)の屋敷跡

豊臣秀吉の正室おねの実父木下定利(号は道松)ははじめ信長、ついで秀吉に仕える。

その子家定は天正15年(1587)には播磨国で1万1,000石を与えられ、のち加増されて2万5,000石で姫路城主となっている。

関ヶ原の戦いのときは東軍・西軍ということなく、妹にあたるおね(北政所)の守護にあたり、直接の合戦にかかわりなかったため、石高は安堵され、城を備中国足守(アシモリ)に移している(慶長6年姫路より足守へ移封)。

なおこの家定の五男が関ヶ原の戦で東軍に寝返った小早川秀秋であった。

慶長13年(1608)家定の嫡子勝俊、次男利房に家定の遺領相続が命ぜられたが、高台院(北政所)の指図で勝俊が独占したため家康の逆鱗にふれ、所領を没収され一時廃藩となる。

同19年大坂の陣の時、利房は徳川方に属して戦功をたて、元和元年(1615)恩賞として父家定の遺領に相当する2万5,000万石を与えられ足守藩を再興した。

木下勝俊は木下長嘯子(チョウショウシ)と号し、歌人として有名。

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